極真空手 茨城大子道場

  Love&Freedom そのために…

②随想

体力がガタガタ

年末年始で衰えた筋力を再び使えるよう鍛え直しています。

この歳になると半月ほど稽古をサボると筋力は元に戻ってしまう。
時間をかけながら上半身、下半身を少しずつ強化しています。


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ある程度筋肉に張りが出てきたので、先日、対人での受け返しの稽古をしたのですが「身体の反応がぎくしゃく」「稽古後の疲労感がすごい」

やはり、自重による筋トレだけではダメで、あわせて、ある程度「圧」を受けながらの対人での瞬時の受け返しを積み重ねないと筋肉も瞬時に動くようにはならないようです。

昔当たり前にできたことが出来なくなるのが「歳には勝てない」というやつです。

たとえ、今年一年を費やして体力を戻したとしても、来年、歳始めにはまた振り出しに戻ってしまう。
やる意味あるのかな。


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稽古時間だけでいえば、稽古量は多いと思います。

まぁ、楽しく稽古ができればそれで良いか。








組手

突きは受けない
蹴りは捌かない

互いに手数手数手数
121212のリズム

間合いが極端に近いからかも知れない。



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空手の間合いの理想は、自分の攻撃は相手に届き、相手の攻撃は自分に届かないところにあります。

距離を調整し、ステップを駆使し、受け捌き、有利なポジションをとる。



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あの時の全日本大会が、昨今の手数でポイント稼ぐ組手だったら、僕は今、ここにいないだろう。




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好きなのは極真空手なんだ。









無敵の空手

人には個性があります。
身体の大きな人小さな人、力の出る人出ない人、気の強い人弱い人。

だから指導する際は、その人の個性に合わせた指導を心がけています。

そしてそれぞれ「今の自分には何ができるのか」を考えることが大切です。

僕は身体も細いし、力もない。普通に戦えば勝てるはずもない世界です。
そこで考えたことは「無い物ねだりはしない」ということです。

大会でよく目にするのが、しっかり身に付いていない技を安易に繰り出して墓穴を掘ることです。
当たりもしない後ろ回し蹴りとか、胴回し回転蹴りなど。
意味のない技は出さないことです。
命取りになります。



大山総裁が目ざした空手は一撃必殺、技を繰り出せば必ず相手は倒れるという空手、それが極真空手です。


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空手は、組まれればどうしようもなく弱い。
組まれる前に相手を倒すしかない。

それには、一撃必殺の突き蹴りと、もし組まれた場合でも負けないだけの力を持たなければならない。
これが正当な極真空手です。
究極は牛と戦っても力負けしない空手です。



昔はプロボクサーも全日本大会に臨んだ。
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とは言っても、力で相手に立ち向かう空手は、僕にはできない。

力持ちは生まれたときから力持ちです。負けん気が強いのも生まれながらです。
鍛錬によりある程度は強くなる。でも、ある程度です。



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自分の個性、仕事、年齢、健康を冷静に見極めて空手に臨むことが大切だと考えています。


正当なパワー空手を実践し継承する人材はたくさんいます。
彼らにお任せします。


僕が考えたことは、受けを合理的に分析し、受け損ないをなくし、受けた際のダメージを少なくする。

攻撃は効果的に、ムダ打ちはしないこと。特に蹴り技で自分の足を痛めないために当てる場所を研究する。

以上のことを念頭に稽古をし、大会に臨みました。

自分の個性を知ることが大切です。自分を正面から見つめ個性を正しく理解することです。




二本指での倒立。
このレベルが本当の極真空手家だと僕は思います。

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怪我の功名ではないけど

右足首の古傷が悪化してからというもの、後ろ回し蹴り、後ろ蹴り、上段回し蹴り、兎に角右足を軸足とする蹴りがマトモにできなくなりました。

蹴る際の軸足の位置、角度、体重の乗せ方など色々工夫をして、軸足に負担をかけないで蹴るにはどうしたら良いのかを集中して研究したことが「棚からぼた餅」というか、役立っています。

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蹴りが苦手ならレベルを見ながら、徐々にコツを教えてあげます。
姿勢ができたら細かな身体の使い方へと、誰でもが簡単に技が身に付く指導法です。

蹴り方なんてそんな分解してかんがえたことがなかったので、良い経験です。それを指導に生かせます。

歳をとること、怪我をして障害が残ること、なに一つ良いことなどありません。

でも、経験を重ねた、ということは財産になるみたいです。






昔話

思い出ばなしをします。

僕が入門した1982年、水戸赤塚道場では、入門すると、先ずは別室で1ヶ月ほど基本的なことを学ぶルールだったと記憶します。

でも、僕は一週間、三回の初心者稽古をしただけで先輩方と一緒の列に加わりました。
特別に許された訳ではなく、初歩的な稽古がつまらなかったので、勝手に一般の稽古に加わったのです。

誰も何にも言いませんでした。
木村責任者だけちょっと「あれ?」という顔を見せたのですが、それだけでした。


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審査は3か月後、あの頃は、キッチリと一級づつの昇級が当たり前でした。
僕が色帯の審査を受けた時、茶帯の大学生が、昇段審査を受けていました。

10人組手では可哀想なほどボロボロにされ、それでも昇段できず、その後も何度か受けたけれど、結局、黒帯は許されずに学校を卒業し去っていきました。

今の審査会での組手は、同じ茶帯か下のクラスと5人組手をし「軽く軽くもっと軽くやれ」が当たり前ですが、僕が見たあの頃の組手はガチンコでした。
それも相手は黒帯の、鬼のような先輩ばかり。「ひぇー!」という情景でした。
師範にそのことを話したことがあり「あの頃は若かったからなぁ」
それが答えでした。


道場の稽古は、兎に角繰り返し。
気合いが足りなかったり、間違えたりしただけでも「もう一度、号令を最初から」と号令は先頭に戻り、延々と続きます。
それが水戸道場の大先輩、横須賀、木村両責任者の指導でした。
テクニックは自分で探るもので教えてはくれません。


そして、稽古の最期には「補強」と称する筋トレが待っています。
腕立て伏せ
腹筋
スクワット
倒立
etc.

最後の最後には必ず「腹踏み」です。
床に一列に仰向けに寝ころびます。
順番に腹の上に乗りグイグイと踏みつけ次に移ります。
20人いれば20人の腹を踏みます。
終われば自分もその横に寝転びます。
つまりは、自分も20人に踏まれるわけで、とても平等な訓練です。

武道をやるためにはそれだけ強靭な肉体が必要だということです。

元極真で新格闘術を立ち上げた、黒崎健時師範が言っていました。
なぜ、腕立て伏せを100回、300回、500回とやらせるのですか?
との問いに、「それだけの強い身体でなければ、怖くって殴り合いなどさせられないよ…」

殴り合うとはそういうことなんですね。
でも、今の道場生はやれといっても、やらないんだよね。やった方が絶対良いよ。


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組手稽古について書きます。
今のやり方は、二列に並び組手が終われば、お互いが右に移動して全員と組手をする、とても合理的な稽古方法です。

あの頃は、指導員が前に立ち、道場生は道場の隅に正座し順番を待ちます。そんな形式が多かった。

指導員が「胸を貸す」という昔ながらのやり方です。順番を待つ者は真剣にその組手を観ます。つまり「見取り稽古」を行うわけです。

指導員は10人から20人と組手をします。指導を受ける生徒は1回から2回程度の組手です。
圧倒的に組手の数は少ない分、学ぶ際にとても大切な「観る」ということを覚えます。

今の道場生が苦手なのは「観て学び考えて習得する」という姿勢ではないだろうか。



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組手の際、最初の頃はスネ用サポーターを付けませんでした。
いつ頃からサポーターを使いだしたかは覚えていない。
先ずは痛さに慣れるのが空手だと理解していました。


昔との違い、次は「息吹」
僕も決して上手な方ではないのですが、今の道場生は昔に比べ、息吹が小さいと感じます。そして、息吹を大切なものと理解していない黒帯が増えたように感じます。
息吹は型の最初にやるだけの、妙な呼吸法程度なのかな。


そして次は、「押忍」
稽古中はもちろんの事、街中でも平気で「押忍、押忍」とやってましたが、今は稽古中でも「はい」と返事をしたりする。


まぁ、いろいろ時代とともに変わります。決して、今の空手を否定したいのではありません。

こんな話を持ち出している僕らの世代も、さらに前の世代からみたら「変わったなぁ…」と思われているはずですから。


僕が望むことは、これからも新たな才能が育ち、さらに良い形の極真空手を作り上げていって欲しいと言うことです。それだけです。


そんなことを再確認するための昔ばなしでした。

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これから

62歳になりました。早いものです。
それでも稽古さえしていればこの歳でも動けると思っていたのですが、ダメでしたね。

健康面や怪我もあるし身体は思うように動かなくなる。にんげんだもの。
自分なりに努力はしたけど「今生ではここまで」
こんな感じで終わりかな、とも思っています。


大山総裁は様になるなぁ
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現在は、殆ど準備運動はやらず、アキレス腱を伸ばして、あとは軽く身体を温める程度の運動をします。
腕立て伏せ等も余りやり過ぎると良くない気がするので10から30回。

移動稽古は、やりません。
型稽古、やりません。
基本稽古を本気でやります。

今の年齢を考慮し、自分に無駄なことはやらないことに決めました。
空手の動きができるか、がカギなのですから。


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・基本稽古
・受け捌きの稽古
・軽くスバーリング
・キックミット
・シャドー

これだけで十分だと考えています。
いや、これでもキツい。
稽古中は息も切れないし、そんなにキツいとは思わない。
でもやはり歳には勝てないと実感しています。

基本稽古は、身体のバランスを観ることと、体力維持が目的です。
キックミットは、どの程度の威力を維持しているかを観ながら、当てる感覚を体感します。

あとは、対人稽古でどれだけ動けるかが重要なので、軽いスバーリンゲはやらなきゃなりません。
それに、これが一番面白い。

緑帯の頃
水戸赤塚道場での自主トレ
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この程度でも翌日は大きな疲労感に押し潰されたまま目が覚めます。
筋肉痛こそないけど疲労困憊でふらふら起き上がります。
復活するのに30分かかります。

だから、年齢に見合った稽古をしなきゃ。誰のためでもなく自分のために。
自分の空手だし、家族のためにも健康でいたいから。


水戸黄門祭にて
氷柱割り


何事も「中途半端」は良くない、と先人たちは言うけれど、最近思うことは、「中途半端」で良いのではないかと。

やり残しがあるから明日もやらなきゃと思うし、どうせ大会も審査も何も無いのだから、大きく枠から飛び出してやれ!
という感じで好きにやります。

これは自分に対する決意宣言です。


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それにしても、還暦なんだ。
これは大きな壁だよ。





バッタの産卵

ショーリョーバッタの産卵を見かけました。
随分、長い時間をかけ地中に卵を産みつけていました。


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夏も終わりに近づき、次の代へバトンを渡すため、命がけで卵を産みつけています。

来年の春には、彼の意志を継いだ新たな生命がもこもこと誕生します。
自然は潔いな、とつくづく思います。

それに比べたら、僕ら人間は幾つになっても、お山の天辺で旗を振りたがる。

もういいじゃないか。





何か物事を考えるにあたって、いつも何故か発想が他人と反対の方法を思いつく癖があります。
何故だろう。

組織の新旧交代という問題。
次の世代を担う人材を育てる方策をどうするか?

「それなら簡単です。今すぐ僕が退けば良い。そうすれば誰かが僕の椅子に座る。それで一人交代になる。これをみんなでやれば即座に新旧交代の問題は解決するではないか」

でも、大多数の人達は、
「いま、交代すれば大会や、その他の行事に支障がある。」
「自分達が見本になり、次の人を育ててから交代するべきだ」
などと考えるらしい。



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僕は、育ててからでは遅すぎるから未熟でもよいからバトンを渡すべきだと、自覚と責任感があれば人は必ず成長すると信じています。
人材が育つまでなんて、平時でもないのにそんなノンビリと事を進めてはいられない。

目先のごたごたはある程度仕方がないと僕は思います。
体裁を繕うことで安心するよりも、将来を見据えた改革をしなければ衰退しかない。
という考えはおかしいのかな。

ほかにも沢山あるんです。みんなと逆の方法を考えてしまうことが。
そう言えば、組手で勝つための作戦もみんなと違っていたな…



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黄色の花から

昔から何となく、春咲く花は黄色が多いなと思っていました。
三十年ほど頭の隅にあった疑問なのですが、一つの説に出会いました。


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確かに春には黄色の花が多いみたいです。
春にいち早く活動を始めるのは「アブ」です。
このアブは黄色が好きで、さらに、蜂とは違い、同じ花の蜜を集めるという習性もなく、遠くまで花を探しに行くということもないそうです。

そんなきまぐれなアブに、毎回蜜を吸いに来てもらうため、春の花々は黄色の花を咲かせ、自分のところに来てくれるように細工しているというのです。本当かな。


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だいたい、アブが花の蜜を吸うだなんて知りませんでした。
アブは牛などの血が好物とばかり思っていました。

そして、ガソリンの匂いも好きなのだろうか。庭先に車を停めると必ず数匹が寄ってくるので。
ついでなので調べてみたところ、二酸化炭素に惹きつけられるという説がありました。

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動物が吐きだす息に反応する生き物は確かにいます。蚊、ブユ、ヤマビル。
人の呼吸に反応し飛んで来る蚊、ブユ、山を歩いていると上から落ちて来るヤマビル…嫌な生き物ばかりだ。書かなきゃよかった。虫が苦手だった。


こんな花と昆虫の関係にも駆け引きがあり、種の繁栄の為に知恵を絞って生きています。それに引き替え、空手界は旧態依然として…

道場もこんな花と昆虫の関係を咲かせられれば人が集まるのかな。

もうすぐ、夏も終わります。

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空手を始める

空手を始めることは簡単です。
僕らの頃は、空手道場が近所になかったので、小学生で空手を学ぶのは珍しかったのですが、今は道場の数が増えて気軽に入門できます。

空手を始めることは、特別ではありません。
大切なことは、続けることです。

大人でも、子供でも一緒です。
「気持ちは変わります」
あんなに憧れて始めた空手が、半年も経つ頃には「何だったの?」と思うほどに心は冷めて行きます。

これが普通の心です。そういうものです。
空手の指導員はちょっと変わっていて、30年経っても初めの気持ちが変わらない人たちです。

だから、皆さんは簡単に空手を始めてください。
でも、辞めたくなったらそこで深く考えてください。
「それで良いの?」と。

道場は、自分を見つめる場所です。
なぜ、辞めるの?
決心したことは何だったの?


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自分の心を見つめることで人は成長します。大人になります。
だから変化が生じたら、深く深く考えてください。

たくさんの道場生をみてきて思うことはそんなことです。


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始めないことには何も変わらないからね。



頼りなげなサンドバッグ

時々みる夢に「頼りなげなサンドバッグを叩く夢」というのがあります。


この夢をみて感じることは「自身の力量の低下に不安を感じる自分自身」です。


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どこかで食事をしているとサンドバッグがぶら下がっているのに気付く。
「立ち上がり近づいて殴ろうとする。サンドバッグは細く頼りなげにフニャフニャだ。それを殴るが、全然力が入らない。破壊力がゼロに等しい」

いろいろなシチュエーションで、その夢をみます。


年齢とともにパワーが衰えてくるのはしかたのないこととはいえ、長年かけて手に入れた宝物がパラパラと剥がれ落ちていくのは悲しいものです。


夢に出てくるサンドバッグは、こんな感じです。

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長いナスです。
今年、初めてこの長~いナスを植えてみました。
一言で「ナス」と言ってもさまざまでこんな長いものから、まん丸いナス、白いナスもある。でもやはり普通のナスが一番です。
まぁ、そんなことはどうでもよろしい。


常設道場でサンドバッグが下げてあり、普段から叩けるなら良いのですが、キックミットだけでは不安になり、時には思いっきりサンドバッグを叩いてみたくなります。


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掘り下げる思考

誉めて育てるのが教育の主流です。
誉めて、やる気を持たせ、良い成績になり、良い学校良い企業に就職すること、さらに業績を上げ社会に貢献すること。それは良いことだと思います。

でも道場は違います。空手をやる目的は色々ありますが、そういう世の中ですから。全てにおいて多様性が求められる時代という意味で。


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でも、僕は、多様性などという「聞こえの良い言葉」には惑わされません。

昨今の「多様性」とは本当に良いことなのか。
生き方の多様性、性の多様性、家族の形の多様性…
その多様性の裏に崩れていく伝統や文化があるかもしれない。
僕は多様性よりも「自由な意志」に真実があると思っています。


日本人は付和雷同的だと言われます。
世の中の動向に引きずられ、周りの動く方向へ何の疑いも持たずについて行ってしまう。
多様性を謳うなら付和雷同であってはいけないはずなのに、人の目を気にしたり、批判をおそれたり。

ぼくの理想は、自分の目で見たことを、自分の頭で考えて、自分で結論を導き出し、自分で歩んでいくことです。
道場で求める理想はそこにあります。


道場における多様性は道場生自身が見つけだしてください。
僕は空手の指導をします。子供だから、年寄りだから、身体に障害があるから。
それはそれぞれの事情なので、自分で自身を見つめてください。


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本来、「いにしえをかんがえる」ことが稽古ですから、自分を掘り返し考えてください。
指導者はいにしえ(古)を提供します。

以前からこのブログで何度も言っている「誉めてはいけない」ということ。
ここが重要です。

誉めたら終わりです。本人は満足してそれ以上考えません。
ダメなところは指摘します。間違っていなければ何も言いません。

何も言われなければ、本人は「これで良いのかな?」と掘り下げて考えるようになります。
考えて理解したことは本人の自信につながります。
そこで潰れるような「か弱い」メンタルなら武道は向いていないので、他の習い事を探すべきです。
ダンス、ピアノ、お絵かき…
色々有りますから。


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同志に

いずれその日を覚悟する年代になったとは言え、やはり同年代の、それも空手の仲間が亡くなるというのは辛いものがあります。

彼は一学年先輩で、ほぼ同い年ですが、なぜか僕を先輩のように接してくれました。
道場こそ違いますが若き日、それぞれ夢を見て稽古に励んだ仲間です。

選手引退後は同じ係を担当し組織の仕事を協力しあいました。
でも突然、彼は病で道場から遠ざかり、その後は連絡をとれず、先日の突然の訃報に大きなショックを受けています。

会議や大会などの行事、そしてメールで組織の問題点や解決策を話し合ったことを思い出します。
彼は「空手バカ」でした。桝田道場に対する思いはとても強かった方です。

亡くなった彼に対し、僕は何もできません。せめてと思いブログに残します。
お世話になりました。
押忍 

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武道の復興

今年は、極真空手の創始者大山総裁の生誕100年あたるそうです。
そして大山総裁が亡くなって30年ほど経ちます。

極真空手、その歴史は戦後に始まりました。当時はアメリカの占領下にあり、武道は禁止されていました。
日本軍の強さ、特攻精神は武道にあると考えたわけです。

そして、その後禁止令を解かれた武道はスポーツ化を余儀なくされ、武道とは名ばかりのものに変わってしまったのだと思います。

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当時、空手界もそのあり方を模索していた時期であり、防具空手や直接打撃空手もあったと聞きますが、主流は「寸止め空手」でした。
大山倍達氏はその寸止め空手の松濤館、剛柔流を修めましたが、相手に触れずに勝敗を決することに疑問を抱き自流を立ち上げました。

1969年、極真会館主催の「第一回全日本空手道選手権大会」が開催されました。
これは手による顔面、金的攻撃を禁じ手とし、瞬時の投げを認めるという画期的ルールでした。
現在まで一部改変しながら続いている「極真ルール」の始まりでした。

大会は回を重ね、ルール自体は大きな変化はなくとも、ご存知のように、戦い方は初期と現在では大きく変わってきました。

大山総裁が空手の武道精神を修得するために用意したルールであっても結局は時代とともにスポーツ化に向かってしまいます。
これは大会を勝ち上がるためにルールを利用するという必然です。
また、武道家としての大成よりも大会での勝敗が目的になってしまったからとも言えます。

大山総裁の真の目的は、大会ルールにあったのでは無く「武道の復興」であったはずです。
極真空手ほど武道を高らかに掲げた団体は無く、その稽古体系も大会ルールも武道の復興にあったのだと思います。
スポーツ化が唯一の生きる道とばかりに寸止めルールを守り続ける旧来の会派とは方向性を大きく異にしています。

その武道の復興という目的から、現在のある一部の極真空手家の有り様はちょっとと思うことがしばしば…
YouTubeでの裏話的なものや大会ルールのおかしな変更など、もはや武道ではないと思います。



ルールと実戦

何故なのか極真空手から派生した団体、会派は、大会ルールに空手技術の理想が有るかのように考えている節がある。そして実戦とは、顔面突きと金的攻撃だ、と。

古く極真会館から袂を分かち新たな流派を立ち上げた師範たちも、大山総裁率いる極真会館との違いを明確にしたいがためか、掌底による顔面攻撃を採用したり、スーパーフェイス着用による顔面攻撃と投げ有りのルール、さらにはポイント制とノックアウト制をミックスした大会。様々な模索があった。

極真会館の基本や稽古方法はこれ以上変えようがないほど洗練されていると思う。
欠点は大会ルールにあります。
「顔面突きと掴みの禁じ手」という極真大会ルールの欠点を大山総裁も分かっていたことだと思う。
しかし、新たに考案されたいずれのルールも極真ルールほどの完成度ではなかったと僕は思います。
つまり、我々が日々積み重ねている「空手の稽古」を活かすルールとしては極真ルールを廃してまで採用すべきものはまだ発明されていない。
さらに言えば、投げや関節攻撃を採用し、グローブ着用までいけば、それは空手の技術体系から大きくはみ出してしまい、道場以外の柔道、ボクシング、サブミッション系の格闘技も学ぶことになる。
「それは空手?」
強さだけを求めるなら空手である必要もなくなる。

大山総裁が生前言っていたことの一つに「空手は素手で戦うものだ。」ということ。
「空手家がグローブをつければキックボクシングになる。」
昔から言われているこの言葉が全てを表しています。

大山総裁は極真空手の大会ルールについて発言しており、「完璧のルールではない。70点程度だ。」と。
残り30点の足りない部分を道場で稽古することにより武術としての空手が完成すると解釈することもできる。

安全性を考慮してルールを作る以上、完璧はない。
そして、大会で勝つためには大会ルールに則した戦い方を研究する。
これは必然であり、その行き着く先に空手の武術としての理想が見えるのであればそれで良いのだが…
でも、大会ルールに理想を求めるのは無理がある。必ずルールに飲み込まれる。

古武術や合気道などルール無しの実戦の技術を求めているところでは大会は開かない。
ルールは相手に怪我をさせないためにある。武術の理想の真逆にある。
どんなルールであれ選手は勝つためにルールを利用した戦い方になるのは否めない。ルールの限界です。

だから、冷静に考えて、手前味噌でも何でもなく、安全性や精神力や戦いのコツ、さらに充実感、達成感…
やはり「初期の極真ルール」が僕は好きだな。


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大子道場の紹介
・所属:極真会館茨城県支部
 桝田道場  桝田博支部長

・大子道場開設 平成12年
 責任者 蛭川浩 段位三段




稽古時間
・火曜日 …(19:00~20:30)
 一般部、少合同合同
 
・木曜日 …(19:00〜20:30)
 一般部、少年部合同
 
・土曜日 …(18:00~19:30)
 一般部  単独稽古




ご入会のお問い合せ
・問合せ先:責任者 蛭川浩

電話…090-5410-2953まで

・中央公民館裏側 柔剣道場

※見学希望の方、ご一報を!



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