極真から派生した大道塾は格闘空手を標榜し型を捨てた
芦原空手は捌きの技術を体系立て独自の組手型を考案した
そのほか極真の影響を受けた実戦空手団体は型を時代遅れの遺物とし捨ててしまったところが多いのではないか?
ここで真逆の考えだったのが大山館長
寸止め空手では本当の実力は計れない
直接技を当て勝敗を決するべきだという考えのもと発足した極真会館
なぜ「極真会館」なのか「極真流」ではないのか
大山館長は、今後、日本は世界の強豪たちと戦っていかなければならない。そんな時代に小さな流派に固まっていてはいけないとし、真に強さを追求する団体を設立すべく「極真空手」をたち上げた
だから極真空手は流派ではない
団体であるから「極真会館」とした
そんな実戦空手の元祖、大山館長は「型」を否定したことはなかった
「型の大会」を否定した
この点が重要である
「型は空手にとって大変重要な稽古方法の一部である、が全てではない」
その空手の稽古法の一部に過ぎない「型」を「組手」と同格に位置づけ、殴り合う組手を否定し、型が空手の真髄であるかのごとく神秘化し、さらに点数をつけ競うあうことに対し痛烈に批判した
当時、主流だった寸止め空手に対する批判である
大山館長の型に対する考え方は、
”空手の稽古の一方法であり、基本的動作、立ち方を学ぶ”
”先人の空手に対する精神を継承する文化財的な意味”
主に以上の点をもって「型稽古」は極真空手の技術体系の中でも重要な位置を占めている
ただ、昨今の少年少女たちや高齢者の空手人口増加に伴い、「型大会」のステージを用意し、技を競い合う場としての型大会は我が桝田道場でも行っており、全体の技術向上には一定の成果を上げている
決して悪いことではないと僕は思う
ただ、今後益々型大会がレベルアップし、些細なミスを減点したり、審判にアピールするためのデフォルメされた動作が試合の結果に加点されるとなれば、型は空手にとって何の意味もないただの「空手ダンス」になる危険性がある
空手の修行体系のなかで
・道場稽古
・組手大会
・型大会
がバランス良く行われるのであればとても良いことだと思う
我々指導者は型大会で優勝するためのテクニックを指導するのではなく、組手大会で抜け落ちている技術を型稽古を通して補完するという点を忘れてはならないと思う
僕の個人的考えですが、型大会のレベルは今程度で十分
寸止め空手の優勝者の型のように「カッチカチに力を入れ、一部の隙も無く、表情は般若の面」のような、そんな型は実戦には何の意味もない
あのようになってしまったら極真空手の型も終わりです