良い言葉が見つからない。
通常のギグガギした型を活字体的とするなら柔らかく流れるように或いは太極拳のように行う型を筆記体的と表現するとしてそんなやり方で「平安」の型を演じてみたりする。
40年も空手をしているのだから良いではないか。
もしかしたらこんなやり方が本来の型稽古なのかもしれない。
などと考えながら試行や錯誤を繰り返す。
伝統の流れの中に武道の稽古は脈々と続いてきたがそれでも技術革新は必須であるはずだ。
東京オリンピックで目にしたあのまるで歌舞伎のような型競技もそんな大きな流れの中で必要があって生じたひとつの革新と言えなくもない。
沖縄の原初的「唐手」からは松濤館、剛柔流であれ極真空手であれ全て本流から外れた亜流だろう。
極真空手は空手では無いなどとバカなことを言って自己満足している伝統派の空手愛好者もいるようだが実戦的に物足りない松濤館や剛柔流空手から生じた極真空手。
その私生児的生い立ちの運命からかそわそわしながら常に実戦的空手の有り様を求めている。
先代大山倍達館長が残した強さを求める遺伝子は組織分裂を繰り返しながらアメーバのように想いもよらない拡散をしているのかもしれない。
それは組織個人を問わずだ。
だから今更沖縄の唐手や日本中に広まった伝統空手と比べる事も無意味であり時折後ろを振り返っては沖縄唐手に存する極意を取り込みながら更に変化変質変貌を遂げている極真空手。
考えてみれば面白い。
100年先どんな形で存在するのか。
勿論目にすることはかなわないが。

(ウラシマソウ?)
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